海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
曇った北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪ってゐるのです。
いつはてるとも知れない呪。
(中原 中也 「北の海」)
黒く厚い雲がどんよりと垂れ込めた風が強い日にはいつもこの歌を思い出す。
「人魚」と言えば美しくも悲しいおとぎ話の主人公。
人間に恋をした人魚は、海の生活と声を捨て、魔法によって足を手に入れる。
そして、陸に上がるものの、結局思う相手と結ばれることはできなかった。
思う相手の命を奪えば人魚に戻れると仲間の人魚から伝え聞くが、自らの手で愛しい人を殺めることはできず、最後には辛く悲しい心を抱えたまま、人間として海に身を投げてしまう。
人は時に大きな心の錘を抱えているもの。
大なり小なり、その時々で心の錘というものは誰にでも必ずあるだろう。
そして、海に入っている間はその錘を感じずにいられると知って、波に乗るサーファーは数知れずいるのではないだろうか。
悲しい、辛い、悔しい、切ないという心の錘を抱えて海に入り、波のリズム、海と空の広さを感じ、光と水が織り成す美しい景色に見とれ、時には波に巻かれ・・・少しずつ心が浄化されるのを感じる。
そんな時、サーファーは人魚以外の何ものでもなく、「浪」は、人魚の悲しい運命を嘆いてくれる優しい存在に思えてならない。
「少しサーファー色に染まりすぎた解釈の仕方かな・・・?」そう思いながら、深呼吸を一つして、今日も冷くなった海に足を入れる。
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